プロジェクトいのち 第43回定例会を開催しました

2018年6月10日(日)

講師:瀬川ひろみ先生

演題:「ブータンの幸せと日本の幸せ~地域保健の現場より~」

 

<プロフィール:瀬川ひろみ先生>

8歳の時にブータン王国のGNHの概念をテレビで知り、憧れを抱く。大学卒業後、看護師として病院勤務の後、青年海外協力隊としてブータン王国南部プンツォリンに赴任。帰国後、行政保健師として勤務の後、京都大学医学部社会健康医学博士後期課程に入学。ブータン王国と日本の地域保健現場での研究を通して、健康と幸福を支えるコミュニティーについて探究されている。

 

 

幸せの基準って何だろう?「私は、○○だから、○○しないといけない」男性だから、強くないといけない。母親だから、子どもを育てなくちゃいけない。私たちは何かに縛られて生きているのかもしれない、と感じるお話でした。

 

青年海外協力隊の時に看護師として活動された時に学ばれた、ブータンの医療の現状や文化、また日本の地域包括ケアを中心にお話しをいただきました。国民総幸福量GNH(Gross National Happiness)を掲げているブータンとは一体どんな国なのでしょうか?

 

—幸せの基準はバランスにある?—

ヒマラヤ山脈南麓に位置する九州とほぼ同じ面積ブータン王国は、70%は森林に囲まれ自然豊かな国です。1980年代までは鎖国状態が続き、王様が国民に民主化を促し、民主化につながった珍しい国でもあります。また、1989年にブータン東北部の伝統に基づく国家統合政策もなされています。

学校教育では、英語が採用され、教育・医療は無料です。教育の現場では、瞑想も取り入れられ、子どもたちが瞑想する姿もみられるようです。

多くの国では国民総生産GNP(Gross National Product)で国の成長度合いを測る中、ブータンではGNHが国の成長基準となっています。①持続可能で公平な社会経済開発②環境保護③文化の推進④良き統治の4本柱で担われています。さらにそこから、9つの分野にわたり「睡眠時間」「植林したか」等の72の指標が示されています。9つの分野がバランスよくあることを重要とされ、この考え方は仏教の概念に基づいているようです。ブータンはチベット系仏教(ドゥック派)を「国家の精神的な遺産」ともされています。発展途上国と言われるブータンですが、男女が平等な生活が成り立っているようで、ブータンには「○○だから、〜しないといけない」という感覚が少なく、「子どもを産んだ人が育てないといけない!」という、感覚が薄いお国柄とのことです。小さな子どもがお坊さんになることも多く、それは日本でいう児童養護施設の役割も担っているのです。

 

—医療の感覚の豊かさがもたらすものー

日本の場合では、東洋医学よりも西洋医学の比率が多くなっている現状がありますが、ブータンの医療は西洋医学だけでなく、チベット医療(伝統医学)の2つがバランスよく融合しています。西洋医学の概念だけではなく、土着の医療文化と融合している点が面白いところです。

 

「無駄が大切な世界。縁が大切な世界」そう話してくださり、ブータンでの学びを教えてくださいました。ブータンの看護の現場で、女性に対しての講義をしても人数が集まらなかったり、無料配布されたコンドームがバイクのつなぎのゴムとして使用されていたり、と衝撃的なことが起こる中、「先入観にとらわれないこと。時の流れ、自然の偉大さに敬意をはらう。自分の信念を持ってやっていれば分かり合える」など多くのことを学ばれていました。

最後は、日本の「地域保健」ということを中心にお話しくださいました。日本の地域保健も時代と共に変化し、健康課題も変わってきています。日本は少子高齢化で、日本全体の4人に1人は高齢者隣、85歳以上の4人に1人は認知症になると言われています。そんな中、子育て世代包括支援センターの支援も整備されています。

では、地域のコミュニティーはどんな役割を担っていくのでしょうか?

実はまだまだ、それぞれ捉え方も違い世代間のギャップも大きく、市町村行政の仕組みも違う現状にある中、瀬川さんは「市町村行政保健師」として、市民の声を聞かれています。子育てのつらさ、虐待の疑い家庭への対応、セルフネグレクト(自分自身が自分のケアを怠ること:ゴミが捨てられない等)のケースなど多くの課題が混在しているようです。

その課題解決への糸口を日本の文化や考え方だけではなく、ブータンで学ばれた感覚を照らし合わせて考えておられました。寛容さとルーズさがHAPPINESのブータン、正確さや計画通りに物事が進み、バスや電車が時間通りに発着する、日本。人は自然の一部と捉えるブータンと自然を愛でる、日本……。

 

——ブータンのHAPPINESSと日本の幸せ……どちらが優れているということではなく、両方を知っているからこそ、照らし合わせることによって新しい道への光が見えてくるような気がしました。